のん柔術クラブZ・悪魔仮面のんです。
ネットでのニュースでビックリしました。
引退されて時間もかなり経っていますが、プロレスラーの鶴見五郎さんが亡くなったそうですね。
今年はプロレス界もターザン後藤選手や青柳館長など僕が大好きだったプロレスの選手が亡くってしまっています。
そんなときに、頭にもなかったこの訃報を聞き、プロレス好きな僕が思い出す内容で故人をしのび僕と鶴見五郎という内容で今回書いてみようと思いました。
そもそも鶴見五郎って聞いてほとんどの人が思うのが
- そういえばおったなぁ~
- あのもじゃもじゃ頭
- ドクロのマークを思い出す
- なんでSOS?
ではないかなぁと思います。
50前になって趣味的感覚で昭和のプロレスを見直している僕からすると、プロレスに凄く必要な見せ方が出来る名プレイヤーの一人といっても過言ではないかと思います。
またSWSの時にはレスリング技術も評価されていたからヨーロッパの蛇の穴からきたキャッチの先生(名前忘れた)の練習会の記事にもしっかりと中心に写っていたのを覚えています。
元々レスリングの強者だったみたいですしね。
そこで少しへんくつで昭和のプロレス好きな僕はそこを通り越していろいろな思い出が出てきます。
全日への移籍後の阿修羅原との抗争や上田馬之助と組んでいた時カブキによくやられていたなぁとか、生で観たこともなかったけど兄貴が持っていた月刊プロレスに載っていた国際プロレスの独立愚連隊の時代のことなど日本で何人かの昭和から平成へかけての鶴見五郎マニアとして語れることもあるのではないかと思っています。
個人的にも色々思うところがあったので今回は鶴見五郎についてブログを書いてみようと思います。
鶴見五郎の思い出~全日本プロレス大竹大会
僕がはじめて鶴見五郎を見たのは、小学2年生のころ毎週土曜日の夕方5時半からあった全日本プロレス中継です。
新日本プロレスでは初代タイガーマスクが登場して大ブームが起こっていた時代です。
そのブームの裏側をマイペースに走っていた全日本プロレスには国際プロレス崩壊後に流れてきたマイティ井上や阿修羅原などの残党選手が合流してきました。
タイガージェットシンと上田馬之助も移籍してきたところに、シデーっと鶴見五郎も悪党第三の男としてよく三人トリオで登場していました。
そんな中、天龍は上田馬之助と抗争しはじめると、子分的な存在の鶴見は元同門の阿修羅原と抗争を始めていました。
子供の存在でも、僕的には結構この争いはハマっていましたね。
もちろん子供の僕は天龍や原を応援していましたが(笑)
そんな同級生の友達が誰も見ない全日本プロレスに対して熱く観ていた僕が鶴見五郎を生で観れる機会が出てきました。
鶴見五郎を生で見た~それはグレートカブキ凱旋帰国ブームの時
当時の友達たちのみんなが誰も見向きもしない全日本プロレス。
しかし僕は偶然にも生で観戦できる機会がおとずれました。
それは、忘れもしない2月のエキサイトシリーズでジャイアント馬場がPWFのタイトルをハーリーレイスに取られていたのを海外まで追っかけて取り返すというシナリオのもとシリーズ欠場。
ジャンボ鶴田をエース、長く海外から帰っていなかったグレートカブキを大々的に宣伝して凱旋帰国させました。
そのエキサイトシリーズに広島の大竹市体育館が名を連ね、しかも土曜日(たしか)という好都合の日程に僕はワクワクしながらも親戚のおじさんに頼んで一緒に観戦することになりました。
カブキが大ブームになっている中、その中にもちろん鶴見五郎がいました。
この大竹大会は僕的にも凄く思い出が多く、エースなのに誰も買わない鶴田のサイン会、のちにカリスマになったジュニア時代の大仁田や動きが悪いウルトラセブンの試合、アジアタッグチャンピオン石川佐藤組、リングインした時にリングを回っている極道コンビ、マスカラスがいなくてもスカイハイでオーバーマスクを投げるドスカラス、入場時に本当に怖くて逃げまわったシン上田など僕には大満足な大会でした。
のちにブロディ刺殺でプロレスファンからは悪名高い土地となるプエルトリコからきたビクタージョビカという選手が子供たちにすごく優しく、現物が今ではないけど僕の心の中では一緒に撮ってもらった写真を思い出すこともあります。
話はそれてしまいましたが、このシリーズはやはりカブキが主役になっています。
そのカブキが大成功したのは鶴見五郎が相手として抜擢されることが多かったからではないかと思います。
それだけプロレスの受け、見せ方が安心して出来る選手として信頼されていたからでしょうね。
ちなみにこの大会ネットで検索してみたら出てきました(笑)
本当に感心するくらい僕が惚れ惚れしてしまうくらいのマニアがいますねぇ(笑)
その時の内容はこんな感じです。
2月19日大竹市総合体育館 観衆3000人
6人タッグマッチ60分1本勝負
ジャンボ鶴田 ジム・デュラン
天龍源一郎(1-0)マイク・デービス
マイティ井上 ビクター・ジョビカ
①天龍(16分45秒首固め)ジョビカ
タッグマッチ45分1本勝負
タイガー・ジェット・シン(1-0)グレート小鹿
上田馬之助 大熊元司
①シン(5分20秒体固め=コブラクロー)大熊
30分1本勝負
ザ・グレート・カブキ(6分15秒両者リングアウト)鶴見五郎
ドス・カラス(9分35秒片エビ固め)越中詩郎
タッグマッチ20分1本勝負
阿修羅・原(1-0)石川敬士
大仁田厚 ウルトラセブン
①原(15分33秒片エビ固め)セブン
20分1本勝負
ロッキー羽田(13分29秒体固め)冬木弘道
菅原伸義(17分18秒片エビ固め)後藤政二
15分1本勝負
百田光雄(11分23秒片エビ固め)川田利
引用:昭和の全日本プロレス
この時の試合を思い出す
改めて見てみると凄いメンバーですよね。
三沢も越中、川田、ターザン後藤、冬木、アポロ菅原もいるし。
ここで改めてみるとカブキと鶴見五郎がやっている…
しかも両リンだし。
結構貴重な試合を観戦出来ていたみたいですね。
僕の持論ですが、試合が空気のように流れることができる選手はプロモーターに重宝されていたのではないかと思います。
簡単に言ってしまいますが鶴見五郎はその一人でしょうね。
シン、上田ほどの怖さはなかったけど、悪いやつには間違いないという子供のころのイメージは今でもそのままでしたからね。
そんな鶴見五郎は僕が大人になっていく過程で全日本プロレス離脱もしてSWSに移籍しさらにレスリングで魅せることもしばしばあったような気がします。
社会人になって鶴見五郎を見る機会があったのはなぜ?
SWS崩壊とともに社会人の一員となった僕は高校時代のプロレス好きな友人に誘われて尾道までプロレスを見に行く機会がありました。
そのプロレスはユニオンプロレス。
のユニオンプロレスが尾道に来るとは。
尾道と言えば富田靖子がでた映画さびしんぼうの舞台。
早く着いた僕たちは映画にも出てたフェリーにも乗って観光気分。
試合前だけでもお腹いっぱいになっていたユニオンプロレスは超インデイー団体でした。
インディー好きな僕は友人から誘われ断る隙もなく行きましたね。
やっぱりその時も鶴見五郎なんです。
試合前に売店で一度みたら目を離すこともなく自分のTシャツをアピール。
凄く買わないといけないムードの中、友人は鶴見五郎Tシャツを購入。
僕は運よく逃げれたはずなのに、世間話をしてきたウルトラセブンだった高杉選手が売っていた西武ライオンズTシャツをサイン入りで購入してしまう(笑)
ユニオンプロレスは代表も興行100万でいいから買ってくれよ~とかみんなフレンドリーすぎて変によく覚えていますね。
試合はインディーらしさが大変あふれる試合だらけでしたが、なかなか入場しないザマミーとジュリーじゃない頃のポイズン澤田がメインでやってやはり鶴見五郎が何かしらこの試合にも絡んでいたような思い出があります。
こう考えるとこの歳になる過程で猪木や長州藤波以上に頭に残っている選手なのかもしれませんね。
その要因は主役じゃなかったからでしょう。
脇役でも十分頭に残る存在感を出していたからこそ僕がここまで忘れていなかったのではないでしょうか。
最後に僕も心ではツルティモドラゴンジムの卒業生
今ではのん柔術クラブZを運営している僕ですが、根本的にはプロレスなどのエンターテイメント大好き。
影響もかなり受けています。
柔術では全く必要ないものですがブログくらいはエンタメ路線でいいのではないかと思い、悪魔仮面のんって名を語っています。
主役にはなる存在にはなりたくないのですが鶴見五郎のようなバイプレーヤー的な存在になってのん柔術クラブZに興味を持つ人が出てきたら面白いですね。
僕は20~30代で自分では腹いっぱいになるくらい格闘技につぎ込んだので、今くらいの鶴見五郎のようなちょこまか笑えるような悪役的な存在でいいです。
技術は大賀イズム継承者のS師匠からたらふく指導してもらってください。
最後に鶴見五郎さんは葬式なども無用と生前言われていたみたいなので、特に葬儀もとりおこなわれないようです。
最後まであっぱれな鶴見五郎。
SOSのドクロマークよ永遠となれ!
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